弔  辞  
 橋本寿朗君、このような形で私が君の弔辞を読むことになろうとは、全く予想もしておりませんでした。私が東京大学を四年前に定年退職したときのパーティーで、門下生を代表して挨拶してくれた君は、きっと私の葬式でも弔辞を述べてくれるものと思っていたのですが、これでは話が逆さまです。最近の君は、次々と新しい研究を発表し、われわれ周りのものは、君から送られて来たものをゆっくりと読み終える間もないうちに、次の本や論文を頂くという有り様で、そのスピードがどんどん上がって行くのに驚きを感じていたのですが、今にして思えば、君の仕事振りは人間としての限界を超えたスピードに達してしまい、そのために著者である君自身がこの世の次元を突き抜けてあの世に行ってしまったのだという感じすらします。それ程、君の死はあまりにも突然でした。

 君との出会いは、私が東京大学経済学部の助教授になって間もない一九六八年四月に開設した日本経済史の演習に君が入ってきた時のことでした。この時の演習生は秀才揃いで大学の教員になったものが四名も出たのですが、当時からもっとも鋭い議論を展開したのは橋本君、君でした。六八年四月と言えば、すでに東大紛争が始まっており、落ち着いた授業ができず、夏休みに入った七月に伊豆で三泊四日のゼミ合宿を行ったのですが、確かそのときに初めて君とゆっくり議論をする機会がありました。当時の君は、宇野経済学とくに恐慌論に関心をもっており、資本過剰論と商品過剰論をどうしたら統一できるかについて議論をしたのですが、学部学生レベルをはるかに超える理解を君が示したのに驚いた記憶があります。当時の君の関心は、しかし、経済学よりも哲学、とくにヘーゲル哲学に向けられており、あの難解な『大論理学』を夢中で読んでいたのにも驚きました。実際、君は恐るべき知的能力をもった学生でした。そういう学生が何で私の日本経済史の演習に迷い込んだのか分かりませんでしたが、私としては、君の鋭い論法に対して、理屈だけをこね回していては駄目で、現実を的確に捉えることができない場合には理論の方を考え直すべきだといった議論をし、いわば実証主義の砦に立てこもって防戦したように思います。

 大学院に入るときに君が提出した論文は、マルクス経済学の原理論に関するやや哲学的な角度からの考察でしたが、修士課程の間は私の経済史演習にも参加し、安田常雄君や杉原薫君たちを交えて激しい議論をしていました。博士課程に進んでからは、私の授業には参加せず、主として大内力先生の授業に出ていたようですが、博士二年の九月のある日、突然日本造船業の歴史に関する長大な論文をもって研究室にやってきました。どうして造船業なんだと聞くと、船や軍艦のことは昔から興味があって好きなんですと言ったのを覚えています。読んでみると造船企業の経営分析が足りないこと、それには資料を補充しないといけないことが分かったので、造船企業の営業報告書を探しに、二人で神戸大学まで行きましたが、それは今ではなつかしい思い出のひとつになりました。

 こうして一九七四年に、第一次大戦期から戦間期にかけての造船業についての最初の君の論文が『社会経済史学』と『土地制度史学』に載ったのを皮切りに、造船業だけでなく電力業や化学工業についての研究論文が次々と発表されました。それらの諸論文を通して橋本君が全体としてどのような戦間期像を提示しようとしていたのか、個別の論文だけを読んだ人は必ずしも理解できなかったようですが、それらの論文を土台に君が一九八四年に『大恐慌期の日本資本主義』を東京大学出版会から刊行したときに、われわれはそこに強靭な日本資本主義という従来になかった新しい日本資本主義像が提示されたことを知って驚きました。日本資本主義といえば、もともと農業部門を初めとして多くの脆弱な体質をもっており、資本主義一般が社会主義に押されて危機的状況に陥っている段階ともなれば、特に激しく没落の危機にさらされるというのが、当時までのマルクス経済学の通説でした。戦前来の講座派の理論に立つ土地制度史学会では、毎年の全国大会で繰り返し日本資本主義の〈危機〉を問題としており、それを批判する宇野学派の人々も日本資本主義は、いまや〈没落〉期にあると言い続けて来たのです。そうした通説的理解に対して、君は、日本資本主義は戦前からなかなか強靭であったのだとして真っ向から批判したのでした。これは大変勇気のいることでしたが、君は一〇年に亙って積み重ねてきた実証分析に立って、敢然と新しい見方を主張したのです。私は、農村分析などでこの書物の内容には疑問に思う点もありましたが、君が現実を的確に捉え切れないマルクス経済学の通説をはっきりと批判したことは、素晴らしいことだと思いました。この点では、君はまさに実証史家としての私のもっとも優れた弟子の一人であり、そうした者として私をも超えて行ったからです。

 それからの君は、私があまり経験したことのない会社企業史や経済団体史の編纂事業にも関わりつつ、ますます活躍の範囲を広げ、特に、第二次大戦後の復興期から高度成長期にかけての日本経済に関する実証研究では、学界の先端に立って活躍しました。社会経済史学会では、一九八三年から君に学会誌の編集委員になってもらい、しだいに投稿が増えてきた現代日本経済史に関する論文の審査を一手に引き受けてもらいました。そうした中で君自身の研究の関心は、しだいに経済の担い手としての企業とりわけ大企業へと集中して行ったように思います。武田晴人君と協力して若手の研究者を組織し、日本のカルテルの歴史を分析し、次いで企業集団の歴史を分析したのは大きな業績でした。さらに、一九九五年に東京大学で開かれた社会経済史学会の創立六十五周年記念大会では、共通論題「日本企業システムの戦後史」の問題提起者と報告者になり、当時評判になっていた、岡崎哲二君たちによる現代日本経済システムの戦時源流説を厳しく批判し、日本企業システムは戦間期から戦時期・復興期をへて高度成長期に形成されたと論じましたが、これは、同学会としては画期的なことでした。こういうテーマは、常識的には経営史学会の方の共通論題に相応しいのですが、敢えて社会経済史学会において共通論題に取り上げて問題としたところに、経済システムを掴むには企業システムを分析の中心に据えるべきだという橋本君の主張が働いていたように思うのです。この論争は、私の見るところでは、実は、戦間期を媒介にして戦前日本資本主義と戦後日本資本主義の双方を一貫する特徴をどのように把握すべきかという新しい問題を提起しているのですが、その点についての君の意見をもはや聞くことが出来ないのは、残念でなりません。

 君の仕事のテンポが早まり、研究対象も拡大するとともに、活動範囲が国際的になってきたのは、その頃からでしょうか。もう君の姿があまりに大きくなってしまって、遠くから眺めている私には、君の活動振りの全貌を的確に評価する力はなくなったのですが、最近の君は、もう一度経済システム全体を問題とする方向に戻りつつあったような気がします。ただし、それは、単純に戻るのではなく、企業への強い関心を保ったままで、経済史と経営史を統合し止揚した新しいタイプの経済史を構想し、叙述していく方向でした。例えば、二〇〇〇年に岩波書店から相次いで刊行した『近代日本経済史』と『現代日本経済史』は、この一世紀の日本経済の発展を、主体的な努力の累積として捉え、「経営史を統合した経済史」を目指したものでした。昨年末に有斐閣から刊行された君の最新作『戦後日本経済の成長構造』も、高度成長の達成を企業経営者と政策策定者による大変な努力を伴った創造的適応と革新的行動の所産として把握すべきであると主張することによって、今日の日本経済の担い手たちの不甲斐無さを批判しています。私も、一九九七年に朝日新聞社から出した『日本の産業革命』で、近代日本史の全体構造とともにそれを変革する主体の姿を具体的に明らかにしようと試みており、経済史研究が経営史研究を取り込む方向に進む必要があることについては君とほとんど同じ考えでした。

 橋本君の構想力の凄さは、そうした経済システムと企業システムの統一的把握という視点を、二〇世紀システムの把握に生かしたところにあるように、私には思われてなりません。東京大学社会科学研究所の二〇世紀システムに関する研究プロジェクトの纏め役をした君は、一九世紀システムと異なる二〇世紀システムの特徴を、社会主義計画経済にせよ資本主義大企業にせよ、いずれも経済活動を人間が管理・制御できると考えた点にあったと見なしました。このように二〇世紀の社会主義と資本主義の双方に共通する側面を取り出すという大胆な方法に対しては、君がマルクス経済学を放棄した証拠だとして批判する人もあるかも知れませんが、私は、理論は現実をきちんと説明できなければ駄目だという立場から、君のこうした新しい把握方法も大いに意味があると考えます。そうした素晴らしい構想力をもって、二一世紀の世界がどのような方向に向かいつつあるかを、君に説き明かしてもらいたかったのは、私だけではないでしょう。

 このように橋本君が成し遂げつつあった仕事を跡付ければ跡付ける程、君がこの世を去ってしまったために生ずる学問的空白の大きさがますます明らかになってきます。どうして、痛風の症状が出た昨年夏からでなく、もっと早くからご家族や友人たちの忠告に耳を傾けて健康に気をつけ、目茶苦茶な喫煙と飲酒を止めなかったのか、残念でなりません。ただ、君は、最後の瞬間まで、大変な勢いで仕事をし、沢山の業績とアイディアを残してくれました。残されたわれわれは、君が精根込めて作り出した巨大な学問的遺産を噛みしめることによって、いま解決しなければならない無数の難問に立ち向かう手掛かりを学び取っていきたいと思います。どうか、地上に残されたご家族の行方と、われわれの学問的営みとを天国から静かに見守ってください。

二〇〇二年二月一日
社会経済史学会代表理事
東京大学名誉教授
石 井 寛 治